浅田真央選手の復帰で注目されたフィギュアスケート今シーズン、グランプリ(GP)シリーズ第3戦・中国杯で浅田選手に迫る2位という活躍を見せたフィギュアスケートの本郷理華選手。彼女を指導しショートプログラムの振付師を務めるのは元日本代表で、2014年の現役引退後はプロスケーターとして活動の場を広げる鈴木明子さんです。そんな鈴木さんに10代の頃、摂食障害により競技はおろか、日常生活すらままならない時期があったというと驚くでしょうか。それを機に“強く完璧な女性”として恐れてきた母とはじめて対峙したといいます。その体験を経て「本当におなじ人だろうかというくらい母は変わった。私も母に対する見かたが変えることができた」そうです。
連載『幸せになるための母娘関係・考 ~私は私、母は母~』をリニューアルしてスタートする本連載。第一回は鈴木明子さんを筆者・麻生マリ子(母娘問題研究家)との対談へお招きしました。■強く完璧な母とおなじように“できて当たり前”の呪縛
習い事のひとつとして、6歳からフィギュアスケートの世界に足を踏み入れた鈴木明子さん。
当時、両親は割烹を営んでいた。お店の営業時間がレッスンの時間帯に当たることも、両親にとって好都合だったかもしれない。学校から帰るとお店のカウンターで常連客らとともに夕飯を食べる。母はレッスンが行われるスケートリンクまで娘を送ると店へ戻り、帰りは常連客が代わる代わる迎えに来てくれる日々だった。
愛知県はスケート教育に恵まれた地だ。浅田真央さん・舞さん姉妹や安藤美姫さん、中野友加里さんや村上佳菜子さん、遡れば伊藤みどりさんなど、有力選手を多数輩出している。
スケート教室には、わが子のお稽古事に熱心な母親が多かった。リンクに張りついて練習風景を見守る母親たちに比べ、「送り届けるだけで、いつも練習に付き添って見るわけではなかったので、ある意味では放任主義と言えたかも知れません。ただ見てはいないけれど厳しかった」という。
母の厳しさを「勉強も習い事もすべてできて当たり前。努力するのが当たり前。それは母がとても“できる人”だから。母自身が影で努力して強く生きてきた女性だから、私もおなじようにできて当然だと」と振り返る。
幼い明子さんに“母”はどのような女性に映っていたのか。 「強くて、ひとりで生きていけるタイプの女性。弱いところを一度も見たことがありません」
勉強しなさい、テストでいい点数を取りなさい、スケートでいい成績を残しなさい――そう言葉で指示されたことはなかった。ただし褒められた記憶もない。
直接的な言葉ではない、無言の“できて当たり前でしょう”。だからこそ、幼い娘は強く母の呪縛にとらわれたのかもしれない。母の求める“あるべき娘像”に応えようと必死に努力を重ねた。
そんな母、そして母と娘との関係が音を立てて崩れたのは、明子さんが18歳のとき。摂食障害になったのがきっかけだった。