2016年の片隅に記録しておくことには、きっと意味がある
そりゃ、「死ね」なんて言葉は選ばれない方がいい。こんな言葉が世の中に出てこない方がいい。
でもこの激しさがないと、世間では取り上げられることも、まして気づかれることさえなかったのです。国政の中心にいつまでもどっかりと座っている、自分たちは「保育園になど子供を預けたこともなければ妻を働かせたこともない」おじさんたちに、事態の深刻さを伝えることができなかった。「世間の若い母親たちが強烈な怒りを抱えている」ことが伝わらなかったのです。
現代史の片隅に、「女性活躍推進」の文脈のサイドストーリーとしてこの言葉を記録しておくことには、意味があるのではないかと思います。
私たちは可愛くてずっと曖昧に笑って真剣な政治の話になんか参加できない、先進国なのに奇妙な抑圧の中に甘んじて生きている、そんな「スイートなジャパニーズ・ガール」ではないーー。
日本の女たちが言葉を持ち、怒りを表現できるのだということが、2016年という東京オリンピックの4年前に刻まれたことには、きっと意味があるのです。
■参考サイト
プレジデントオンライン
「『日本死ね』って本当に女性?」平沢勝栄議員は別の日本を生きているのだろうか
文/河崎環 写真/PIXTA