味覚の鋭さに気付いた母

 農夫の祖父から、自然の恵みやお金の稼ぐ方法などを教えてもらっていた小学生時代。「本物」を食べることを通して、味覚は普通以上に発達していたのではないかと松嶋は自らを分析する。

 「朝食の牛乳が減塩牛乳とかになると、美味しいと思えなかったので『そんな牛乳、買わんでよ』とか文句を言っていたんです。ある日、親父が外側のパックは普通の牛乳で、中に減塩牛乳を入れて僕に飲ませようとしました。しかし、そんなことは味見をしたとたんにわかるので、親父に怒ったことがあります(笑)。

 みそ汁の味噌が変わったときは『今日、みそ、変えたな』と、1人でボソボソっとつぶやいていました。

 そんな僕を見て、母は、息子が味に敏感だというのを気付いていたんです」

 外食の時のエピソードも興味深い。

 「家族で外食をして、気に入った料理があると決まって母は、『あの時、食べたやつ、ちょっと今回作ってみたけど、どげんね?』といって僕に試食をさせていました。『いや、もうちょっとこんな味がしとった』とか言いながら、母が再現しようとしたものにアドバイスをしたりして、一緒に料理をつくっていました。

 そんな時、『あんた、料理でもやったら。そうね、フランス料理とかがよかっちゃなかと?』と母が言ってきました。それが、小学校5年生の時です」

 なぜ母はフランス料理などと言ったのか。

 当時の松嶋には、料理のほかに熱中していたものがある。それはコロンブスの伝記だった。

 「いつか僕もコロンブスみたいに、未知の世界に旅立って、新しい世界を発見したい。そして、人と違ったことをやる勇気を持たなければいけない。どちらかというと“コロンブスの卵”の方をやりたいと思っていましたが、同時に『いつか海外に行くんだ』という強い思いを抱くようになりました。

 母はそれにも気付いていたんだと思います。だから、日本料理ではなくフランス料理って言ったのでしょう。そこからですね、夢中になるものが料理になっていったのは」

「親戚の寿司屋に行って、寿司を食べていました」

 けんか好きで、料理が好きな松嶋にも、当時、気になっていたスポーツがある。サッカーだ。中学に入ったらサッカー部に入りたいという希望を持っていたが、同時に抵抗感もあったという。

 「小学校の時、仲間うちで野球やソフトボールが盛り上がっていた時期がありました。ただ何か『これじゃねえな』というのを感じていたんです。心のどこかでサッカーをずっとやりたかった。やるなら、野球よりサッカーをしたいけど、近くにチームがなかったし、なんとなく機会を逃していた感じです。

 入学した中学校にはサッカー部があったので入るチャンスはありました。だけど、兄貴がサッカー部出身だったんです。すでに兄貴は卒業していました、その兄貴の後輩たちが自分の先輩になったらいじめられるだろうと思い込んで、敬遠してしまったんです。

 結局サッカー部には入らず、陸上部そして水泳部。でも、ほぼ帰宅部同然でした」

 部活にも熱が入らず、ましてや勉強も好きではない。一方で、キャンプ地などで鍋をつくることに張り切る父の姿をみて、どこかカッコよさを感じていた。学校生活よりも、ますます料理に興味を持ち始めた。

 松嶋の親戚には寿司屋が多かった。だから、正月になると親戚中から「手に職をつけろ」と常に言われていた。

 「『お前は器用なんだから、手に職をつけろ』ってみんなに言われていました。じゃあ、どんなもんなのか?と思って、休みの日に電車代だけを持って、親戚の寿司屋に行って、寿司を食べていましたね。1人でカウンターに座って(笑)。『出世したら、払うけん』って言って、偉そうに食っていました。

 そして、親戚の1人に『帝国ホテルに知り合いがいるから、お前をいつでも入れてやるぞ』って言われていたので、その気になっていました。『中学を卒業したら、寿司屋で働く』と友達に言っていたら、それを聞きつけた親から『あんた、頼むから高校ぐらいは行ってくれ』と懇願されて。だから仕方なく受験して、高校に行ったんです」