「謝罪」の本質を学ぶ

恋愛での“謝罪の失敗”

 まず、筆者が友人の女性から聞いたエピソードを紹介します。彼女の誕生日の夜のこと、待ち合わせ時刻に1時間近く遅刻してきた彼が、開口一番「会議が長引いちゃってどうしても抜けられなくて。本当にごめん」と口にして、その会議がいかに大変だったかを説明してきたそうです。

 彼女は彼の言葉を聞いて、「仕事で仕方ないから何も言わなかったけど、待たされてる時より悲しい気分になった」とのこと。つまり彼女の立場から見れば、彼の言葉は謝罪としては“失敗”していると言えます。「そもそも誕生日に遅刻すんな!」……という指摘はとりあえずおいて、どこに問題があったのかを考えてみます。

謝罪と弁解のちがい

 彼の言葉には「ごめん」という謝罪の表現もありますが、力点が明らかに「会議が長引いた」に置かれています。つまり責任転嫁が図られているため、これは「(1)謝罪」ではなく「(4)弁解」だと言えます。彼的には、もしも遅刻が完全に自分の責任になると、彼女からの信頼を失って印象が悪くなるので、弁解の言葉を述べたわけです。

 このように、釈明する側から見ると、謝罪とその他の釈明とで明確に異なるのが「責任を認めるかどうか」という点です。

 一方、釈明を受ける彼女の側から見るとどうでしょうか。弁解によって彼に責任はないことはわかっても、自分が受けた心理的・物理的被害は変わらないため、不満を感じることは避けられないでしょう。むしろその気持ちのやり場がなくなり、より辛くなっているのだと思います。本書では次のように述べられています。

「謝罪以外の釈明では、往々にして不快感情が持続し、当事者に対する信頼は低下しないものの、不快な感情を和らげる効果は小さくなることがわかっている」

 逆に言うと、謝罪だけが被害者の傷ついた心を修復できるのです。釈明を受ける側から見たときの、謝罪とその他の釈明との一番の違いがこの点です。

謝罪はなぜ“癒し”になるのか

 上で例として挙げた遅刻は日常的な些細なことかもしれませんが、それでも、待たされる側にとっては「相手が自分との約束を軽視した」ように感じられますし、それはそのまま「自分の存在が軽視された」という感情につながります。コトの大小に関わらず、存在を軽視されたときに、人は自尊心が傷つきます

 では、なぜ謝罪によって傷ついた自尊心が癒されるのでしょうか。

 本書によると、謝罪することは「許す/許さない」の判断を相手に委ねることであり、自分の地位を相手よりも低い位置に置くことです。これは謝罪される側から見れば、生殺与奪権(せいさつよだつけん/相手をどうとでもできる権利のこと)という、ある種のパワーが付加されたことになるため、「自分の地位が高まったという感覚を持つことができ、被害者としてのみじめな気持ちや、軽視されたという憤りから解放される」のです。本書ではこれを謝罪のエンパワーメント効果と呼んでいます。

 また、ケンカや揉め事になった時に相手から謝られれば、「自分が悪いわけではなかった」「自分の行為は正しかった」と再確認でき、不安を払拭できます。心理学ではこれを知覚の妥当化と呼ぶそうです。