観察映画ができるまで

■「体験」とそのなかでの「発見」

 多くのドキュメンタリーが台本に近づくように作られるのに対して、観察映画は〈想田監督の体験〉に近づくように撮影・編集されます。

編集では、なるべく自分自身の体験を再現しようとしています。実際の牡蠣工場から自分が感じた印象と、映画を観た時の印象が、なるべく隔たりがないように調整していくわけですね。
(『観察する男』p.209)

 そしてその体験のなかで監督が発見したことが、作品のテーマになります。つまりテーマは後から見出されるのです。これは「台本のあるドキュメンタリー」とは真逆のプロセスです。

 例えば新作『牡蠣工場』は、瀬戸内海の牛窓という港町にある、小さな牡蠣工場の様子を撮影しており、想田監督はそのなかで「過疎化とグローバリズム」というテーマを発見します。過疎化はともかく、瀬戸内海の小さな牡蠣工場を撮影していてなぜグローバリズムにつながるのか――疑問に持たれた方は本書か映画館でぜひ確かめてほしいのですが、この飛躍のある発見を、ナレーションやテロップなしの映像だけで伝えるためには、撮影でも編集でもたくさんの工夫が必要になります。

観たままを漫然とカメラで記録しているだけだと、自分の発見が観客には伝わっていかないわけですから。「伝わるためにはどうするか?」ということは常に考えます。
(『観察する男』p.85)

映像というものすごく具体的なものを扱っているんだけど、そこから抽象的な何かが導き出されていかないと、編集は失敗。
(『観察する男』p.117)

 本書を読んでいるときの独特の臨場感は、想田監督のこのような製作・思考プロセスの一部を追体験できることから生まれています。本当に「行き当たりばったり」で撮影していく展開には思わず笑ってしまいますし、そうして切り取られたバラバラの場面が、編集を通してテーマ性のある「映画」になっていく様子には思わず興奮させられます。

■「台本が欲しい」という恋愛相談

 さてここまで、台本至上主義の(普通の)ドキュメンタリーとの違いに着目して、観察映画の手法について簡単に紹介してきました。

 両者の違いを知ることは、本コラムのテーマである恋愛においても参考になるように思います。なぜなら恋愛においても、しばしば「台本」に縛られてしまうことが起きるからです。

 例えば我々桃山商事が行っている失恋ホスト(女性の恋の悩みをひたすら聞く活動)には、定期的に次のような相談が寄せられます。

 「彼とうまくいくためにはどう行動すればよいのでしょうか?」

 これは言わば、恋愛成就のための台本がほしいという悩みです。

 しかし、「彼」と会ったことのない我々が気持ちの動きを予測することはできませんし、そもそもそれは誰にもコントロールできることではありません。実際の相談時にはそのことを伝えたうえで、「相談者さんがどうしたいのか」を一緒に考えていきます。

 このときに「男性心理を考えるとこうすればよい」といった一般論的な回答を提示することも不可能ではないのですが、その種の回答が逆に弊害になると思うのは、次のような悩みも寄せられるからです。