作者の描く世界の優しさにほっとできる作品
すでに「海の見える理髪店」を読んだ方は同じ印象を持たれたのではないでしょうか。
「理髪店に、今すぐ行きたい」
私はまずこの生理的欲求に襲われました。入り口で赤、青、白の回転灯がくるくる回っている昔の「床屋さん」です。無口なおじさんが、カミソリを革でなめしたり、前屈みに洗髪をする理髪店です。
小説は、熱いタオルで髭を蒸され、力強い親指で肩のこりがぐいぐい揉みしだかれ、小気味よいハサミのリズムにうとうとする「理髪店のシズル」が満載。その合間に、人里離れた海の見える場所で理髪店を営むご主人の半生が語られていくのです。
浮き沈みがあります。有頂天も堕落もあります。ささやかな生活が、スターのようにきらめく時もあるかと思えば、人を殺めた話も出てくる。
その人を殺したときの話が、ちょうどひげ剃りのために刃物が頬にあたっている時に出る。気持ちのいい理髪店のシズルが、一瞬にして血を吸う刃物がのど元に近づく殺人のシズルに変わる筆致は実に見事です。
鏡に映る美しい海の風景が、あっという間に「お前は人殺しだ!」と言われることがひたすら逃れた悲しい色合いに変わっていく様は、この作者ならではの描写でしょう。
この直木賞には、もう一つ特長がありました。
どの短編にも「もしあの頃に戻れたら」という後悔の念が含まれているのですが、どれもほのかに温かい。うっすらと滋味と希望が混ざっていて、読後に温かい気持ちが残りました。
16年も母親に反抗した娘が、実家に戻ってきた日を描いた短編「いつか来た道」。ここでは敵対していた母が、認知症になっています。母の記憶が薄れていく中で「私、母にどれだけ愛され、期待されていたか」を主人公は知ります。題名の「いつか来た道」の深さを教えられるのです。
広告は、常に明るい未来を描く仕事。その稼業を30年もやってきた私には、荻原浩さんの描く世界の優しさにほっとするのです。読み終えたとき、「失われたものは、決してなくなってしまったわけじゃない」という感覚が残ります。これはかなり上質なシズルです。
大人にしか味わえない人生のシズルです。
文/ひきたよしあき 写真/PIXTA
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