■“優しい父親像”を守り抜いた母の賢さ

 そもそもなぜ母はこれほどまでに強く厳しい顔を明子さんに見せてきたのか。あるいは見せねばならなかったのか。

前編でもお話したように両親は割烹を営んでいました。職人気質の父は、仕事中、母を怒鳴りつけることもあったようです。私に対しては優しい父でしたから、憶測でしかありませんが、母は私に父のそうした面を見せたくなかったのかもしれません。それも含めて、自分の弱さを見せたくない、というところに繋がったのではないでしょうか」

 見かたを変えれば、これは父を“優しいお父さん”として、そのまま娘に見せ続け、娘のなかにある父親像を守り抜いたとも言えるのではないか。だとすれば、母親として、賞賛すべき態度である。

 配偶者の愚痴をわが子に吹き込む親は少なくない。両親のあいだで引き裂かれていく子どもたち。幼いころから、愚痴の聞き役、親の“カウンセラー役”を担わされてきた子の苦悩は深い。成人してからもなお、だ。特に娘の場合「不幸なお母さんを差し置いて、私だけ幸せになるなんて許されない」と“幸せになってはいけない”呪いにかかる事例が見られる。

■“育てられた”ときに受けた傷は“育てる”体験を通して昇華できる

 いま本郷理華選手の指導を担い、後輩の育成というかたちで“育てる”立場になった鈴木明子さん。彼女は“○○二世”“第二の○○”という言いかたを好まない。ひとりひとり、人は違うのだ、という考えかたが根底にある。

 「理華さんをはじめ後輩たちには、鈴木明子とおなじように舞ってほしいなんてまったく思いません。むしろ私なんかどんどん飛び越えて、もっと大きく羽ばたいてほしいです。私とおなじようである必要、クローンになる必要なんてありません」と話す。

 さらに「その子自身の持っているものを作り変えることはしません。パーソナルな部分を含めて、後輩ひとりひとりが磨かれていけばよいと思って指導にあたっています。そのためには、後輩を理想の型にはめ込んで見るのではなく、その子自身を見てあげることですね」――筆者は過去を含めた鈴木明子さんと母との関係が、ここに有機的に生きているのを見た。

 摂食障害を経て、母との関係を変えることができた。その過程とまたその後の母とのあいだに築いた良好な関係のなかで、かつての体験を昇華していったであろう鈴木明子さん。

 そして、いま“育てる”経験によって、より高次な昇華がなされていると筆者は見る。

 “育てられた”ときに受けた傷は、“育てる”経験によって、さらに深くなることもある。別の機会に筆を執りたいが、典型例が虐待やネガティブな親子関係の世代間連鎖だ。

 しかし逆に“育てる”経験によってこそ、昇華され癒やすことのできる場合がある。鈴木明子さんは好例だろう。母に育てられたときの経験が、客観的な視点を養い、いま“育てる”ことに生きている。

 また明子さんが学生時代、摂食障害の治療が続いていたころ。仙台に戻ると、スケートの話にはいっさい触れず、外によく連れ出してくれる女性がいた。明子さんは彼女のことを「仙台の母」と呼ぶようになる――不思議な縁と言うべきか、それは本郷理華選手の祖母であった。「雰囲気や容姿など、私の母にそっくりなんです」と微笑む。

 氷上以外にも心から自分を自由に解き放って安心できる居場所を得た彼女は、これまでを振り返って、最後にこう結んだ。

 「無駄なことなんて、ひとつもないのですね。摂食障害の只中にいた18歳の時分には、30歳を迎えたいまの私なんてまるで想像できませんでした。これからもつらいことはたくさん待ち受けているかもしれない。でも人生なんて端から想定外のものなのだ、という覚悟を持って、いまを生きています。想定内の想像できてしまう範囲の人生なんてつまらないんじゃないかなって、いまは思いますね」