ルワンダ大虐殺を境に、連絡が途絶えた

 義足や義手を作る仕事は面白かったです。上達するのが自分でも分かるし、徒弟制度も嫌いではありませんでした。親方に「なんだおめぇ、このやり方は」などと叱られ、コンチクショウと奮い立つのも快感で、3年のつもりが5年勤めてしまいました。

 その間も、気持ちはアフリカに向いていました。ルワンダの紛争はなかなか終わらず、ガテラはケニアに住みながら、時々ルワンダに戻っていました。彼の家には電話がないので、月に一度公衆電話から電話をかけてきたのですが、1994年、ルワンダでフツ族によるツチ族の大虐殺が起きた時を境に、連絡が途絶えてしまったんです。

 3カ月間に100万人以上の人が殺された大虐殺。その時彼がルワンダにいないことは、直前の連絡で分かっていたけれど、「もしかしたら帰っていたのかも」と、私はとても不安でした。新聞やテレビが報じる山のような遺体の写真を、ガテラじゃないかと一人一人確認したほどです。

「彼は彼なりに虐殺を止めようとケニアで資金集めをしていて、忙しくて連絡どころではなかったんですね」
「彼は彼なりに虐殺を止めようとケニアで資金集めをしていて、忙しくて連絡どころではなかったんですね」

 しばらくたって電話がきた時、声を聞いた瞬間、へたっと床に座り込んでしまいました。彼は、ルワンダに戻ったことや国の状況を伝え、「住む場所が決まったら連絡する」と電話を切ったんです。

 こういうことって、日本にいると想像できませんよね。ガテラは、子どもの頃から紛争の中を生きていて、彼が暮らしていた障害者施設に、民兵が襲ってくることもあったそうです。彼の友達は、足が悪くて立てなかったので、木にロープで体をくくりつけてもらって銃を取り、民兵に立ち向かって仲間を守ろうとしたそうです。逃げられないから殺されてしまったんですけれど……。そんな経験は、私には想像もできないことでした。

*第3回に続く

紛争後のルワンダで、身体障害者に義肢を作って無料で配る
ムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクト ルダシングワ真美さん

第1回 元派遣社員がアフリカへ 義肢を配る活動を始めるまで
第2回 ルワンダ人の彼と職探し…その後起きたルワンダ大虐殺(この記事)
第3回 ルワンダで義肢造り「素晴らしい人と思われたくない」 5月31日公開予定

聞き手・文/金田妙 写真/清水知恵子