音楽活動を続ける川谷絵音と画面から姿を消したベッキーの対比

 芸能人としてのキャリアも格も年齢も上のベッキーには、当時いくつものCM契約があり、イメージダウンによって法的な責めを負う恐れが十分にあるのも理由だったのでしょう。神妙な面持ちで謝罪会見の場に立った彼女は、「お付き合いということはなく、友人関係である」と不倫の事実を否定しました。しかしLINE画面の流出や何やらで彼女の”嘘”が暴かれ、やつれた姿で視聴者の前に数度現れた後、やがて画面から姿を消しました。

 既にブッキングされていた音楽番組やライブイベントに出演する機会がまだ残され、なんだかんだと音楽活動を続けていた川谷絵音とは対照的に、ベッキーが画面に帰って来ようとする試みのたびに世間やネットは紛糾し、その芽を摘みました。

 二人のコントラストを見る人の中には、「川谷絵音が世間に”許されて”活動できるのに、ベッキーが世間から抹殺されるのは、不倫は男にとっては勲章だが女にとっては汚(けが)れとする、日本の根強い男尊女卑思想の表れ」と糾弾する人たちもいました。でも本当にベッキーは、「男尊女卑の国・日本で不倫した女だから抹殺された」のでしょうか?

不倫だけが理由で本当に社会から抹殺されるのか(C)PIXTA
不倫だけが理由で本当に社会から抹殺されるのか(C)PIXTA

 というのも、あえて際どいことを言いますが、この現代日本で不倫はモラルの問題や、民法上の離婚事由とはなっても、宗教的戒律や姦通罪が存在するわけでもない。よくよく考えれば、不倫だけを理由に社会から抹殺するのなら、「抹殺されるべき男も女も、本当に本当のところ、世間には佃煮にするほどいる」のではないでしょうか? そして、世間はそんなに聖人君子ばかりなのでしょうか? 

 未婚だろうが既婚だろうが、偉かろうが虐げられていようが、女はその主体的な当事者にいくらでもなり得るのが現代です。

 では、ベッキーはなぜ画面から消えたのでしょうか。

「明るくいい子」ブランディングをした女子の代償

 私はベッキーになんの恨みもありませんが、彼女のキャラクターは「女の子は、明るくて可愛くて怖くなくて(理知的過ぎない)、気が利くのがいいよね」という日本の既存の価値構造を相手に、上手に商売をしていたと認識しています。

 彼女は「明るくて可愛くて怖くなくて気が利く」日本社会受けする女子像を引き受け、その価値構造の上に乗って売れたのではないでしょうか、そしてそのまま31歳(報道当時)という大人の女になったのではないでしょうか。

 だから、流出したというLINE画面の「友達で押し通す予定!」の言葉を始めとする様々なものに滲み出た、彼女が自分のお客である世間や視聴者を実のところ侮っていたと感じられる態度に、視聴者は疑問を感じたのではないでしょうか。彼女のタレントとしての背景や戦略も理解した上で、「それならなおさら、そういう幼稚な仮面を被って生きるのはもうやめなよ。私たちはお腹いっぱいだよ」というメッセージを突き付けたのではないかと思うのです。

 また、世論の私刑(リンチ)にも市場原理があるのを感じます。川谷絵音は創作者ですから、作者と作品を切り分けて、作品が良ければ生き残る術がある。でも創作しない、自らの「存在そのもの」を商品とするタレントは、商品と自分を切り分けられないがゆえに商品評価の上下が存在の浮沈にダイレクトに反映されてしまったのではないでしょうか。