「お父さん」を「父」と呼ぶような年齢になった私たち

 お父さんが自分よりもずっと背の高い、大きな人だと思っていたあの頃。「お父さん大好き!」と臆面もなく言えていたあの頃。「お父さんなんか大っ嫌い! こっち来ないで!」と愛されていることを心の底で確信しているがゆえの傲慢な嫌悪感をぶつけていたあの頃。思えば、ずいぶんと遠くまで来ました。もしや、私たちはあの記憶の中の父の年齢に近づいているどころか、越えてしまったのではありませんか?

「最近、よう頑張っとるらしいやないか。体壊すなよ」 (C)PIXTA
「最近、よう頑張っとるらしいやないか。体壊すなよ」 (C)PIXTA

 社会人となって家を出、職業人として自立した視線を持っている今だからこそ、子どものときに見えていたものとは違う父の姿が、現在の私たちには見えています。どこか自分に似た表情、仕草、そして性格や行動……。そこにはどうにも否定しがたく「私はこの父の娘なのだ」と自分に投影できる何かがあるのかもしれません。

 「ありがとう、トニ・エルドマン」で父が娘に愛情表現として繰り出す悪ふざけとの攻防は、娘が人生の渦に巻き込まれてただぐるぐると踊らされるうちに善悪も要不要も判別がつかなくなってしまった暮らしを見つめ直し、取捨選択する作業でもありました。

 イネスが父親に抱きつく前、立派な大人の女のはずの彼女は衆目の前で「パパ!」と大声で叫びます。そう、気づかせてくれたのは他者に父親を紹介するときの「父」でも「お父さん」でもない、今の老いた姿の父の中で昔から変わらずに小さな娘を見守ってきた「パパ」という役割かつ存在。父親にとって、娘はいつまでも小さなあの時のままで、特別な思いを注ぐ対象であるのと同時に、娘にとって父親も根っこではずっと「大きくて優しい」特別な存在なのですよね。

 ……まあ、もっさりしていたりおっちょこちょいだったりダメ男だったり細かかったり、大人になってから「まったく、ウチの父親は……」と見えてしまった現実はどうあれ、です(笑)。なんたって娘の私たちからすれば「人生で初めて出会う男性」ですから、多かれ少なかれ善かれあしかれ、私たちの男性観にも深い深い影響を与えているのですよ。認めたくなくても、ね!

 今週末は父の日。メールか電話でいいから、忙しいあなたも、久しぶりにお父さんに連絡してみませんか。

文/河崎環 イメージ写真/PIXTA