我ながら雑な人間なもので、丁寧な暮らしをしている人に憧れがあります。
例えば、毎年この時期になると梅酒を漬けている、とか。植物の命を最後まで慈しんであげられるように、庭で育てている草花をドライフラワーにしてリースに仕立てているとか。趣味はパン作りで、毎朝焼き上がったばかりのパンの香りが幸せよ、とか。
それらの言葉には、この原稿をパソコンでポチポチと書きながらコンビニのぶっかけうどんをすする口と手を一旦止めて、人生から考え直してしまうくらいの浸透力があります。
「私、丁寧じゃないダメ女です」という自虐
ぶっかけうどんをすするのを一旦止めて人生から考え直しかけた私ですが、2秒で食事に戻りました。やっぱり梅酒は飲むけれど漬けませんし、そもそも庭で花を育てていないし、そういえば朝はご飯派です。
できないものはできない。というより、しないものはしない。私の信条は「それが得意かどうかは、継続した日々が最も直接的に証明する」——つまり、続かないことは得意じゃない(から、諦めよう)。裏返すと、続いているということはすなわち「得意」「向いている」という証拠なのではないでしょうか。ということは、焼きたてのパンの香りよりも私にはコンビニのぶっかけうどんのねぎとだしの香りが向いている。
憧れとは、手が届かないからこそ生まれる感情なのです。
でも、気になってしまうのは、そういう「丁寧な暮らし」には有無をいわさぬ正義があるところ。