「セクハラ程度で告発した若い女性記者はしつけがなっていない」と言う思考停止オジサン

 セクハラ問題もさることながら、その「女性記者は非常識」なんて意見にこそ、私は怒り心頭。

 「女性記者を使う時点で、情報を引き出そうとするハニートラップ」「メディア業界ではよくあることでセクハラなんか織り込み済み」「そんな『ささいな』セクハラ音源を他社に売って、モリカケ問題で重要な局面にある財務省の仕事をストップさせたひよっこ女性記者と、教育できていない所属会社の罪は重い」なんて論調で、セクハラ自体を「そんな程度のこと」と全否定。揚げ句「今後、女性記者を相手にする『重要な人物』は、オフレコ発言を公開されるのを恐れてオンレコでしか話をしてくれなくなる。これは女性記者全体の問題だ」とまで言い出し、オイコラちょっと待てと私の短い堪忍袋の緒が切れました。

 なぜハラスメントを受けた側が悪いのか?
 なぜハラスメントを告発するのが女性記者に限定されているのか?
 なぜハラスメントを受けるのも女性記者に限定されているのか?
 なぜ「重要な人物」は男性に限定されているのか?
 そして何よりも、なぜ情報を得るためにはハラスメントは「対価」だと前提しているのか?

パワーバランスの川上と川下

 なぜこのオジサンたちはセクハラの重大さが分かっておらず、「そんなことをバラして、常識がない」とまで説教するのか。私はハッと気付きました。

 そうか、加害者側に所属し、その力関係に安住する人間は、被害者の反発を自分への「裏切り」だと思うんだ。そこに信頼なんか存在しないのに、「相手は何を言っても唯々諾々と聞くはずという自分のおごり」を「信頼関係」だとゆがめて認識するんだ。

 セクハラは「ハラスメント」、嫌がらせです。

 パワハラ・モラハラと同じで力の差を利用して他人を傷つける。まして執拗に傷つけている時点で、(次官が訳の分からない弁明をしたように)「言葉遊び」じゃない。それはいじめが露見したときに、いじめる側が口にする自己弁護と全く同じではありませんか。「ただの言葉遊びなのに、そこまで深刻に受け止めるそっちが悪い。考え過ぎ」。挙げ句「そんなやつだからいじめられるんだろ(あ、俺のはいじめじゃないけどね)」。どこまで人格破綻してるんでしょうか?

 情報や権力のパワーバランスには、必ず川上と川下があり、川上にいる人間の発言は重力や流れの速さを伴って、重さや鋭さを持って川下に届きます。でも川下の人間の発言は、流れに逆らって届けるしかないので、常に大きな負荷がかかっている。ところが川上の人間は、自分の発言が常にスムーズに重要性を持って相手へ届く快適さに慣れているから、それは「快適な関係」であり当たり前であり、二者間で永遠に続くべきだと思っている。だから、川下からの反発を受けるとまず己の言動を反省したり論理的に状況を精査する以前に、「信頼関係の裏切りだ!」として「むしろ感情的にナイーブに傷つき」、責めるんです。

パワーバランスには川上と川下があり、発言一つ一つの重さと鋭さはまるで違うのだ (C)PIXTA
パワーバランスには川上と川下があり、発言一つ一つの重さと鋭さはまるで違うのだ (C)PIXTA