記事を読んだ世間(なんら関係のない人たち)が、その当事者の生殺与奪の権を握る。生かすも殺すも世間の風向き次第。私はぼんやり考えてきました。この日本社会を挙げての「不倫発見・制裁」システムのその先には何があるんだろう。ここまで不倫が偉い人でもそうでない人でも「検挙」されるのは、その先にあるヒューマニティーの理解と寛容、社会の成熟のためなのかなぁ。「結局、不倫なんてのはよくある話で、それが人間というものなのだ。それは他人事ではなく誰もがそんな弱い人間性を自分の中にも抱え、共存していくのだ」って。

生かすも殺すも世間の風向き次第(C)PIXTA
生かすも殺すも世間の風向き次第(C)PIXTA

 文春の最終的な意図はきっとそうなのだろう、きっといつか振り返って「僕たちはそれを狙ってたんですよ」とタネ明かしをするのだろう、そうだそうであってくれ、じゃなきゃジャーナリズムじゃない、と。

いつまでやり続けるの? 俺/私、もう嫌だ

 だって、そんなに他人のことを口を極めて断罪してSNSで刑を宣告できるほど、世間はみんな身ぎれいで一点の染みもなく、たたいてもホコリ一つ立たず、清廉潔白なんでしょうか? 

 この「お前の一番弱くて醜いところを暴いて潰して社会から抹殺してやる」っていうチクリ→袋たたき合戦は、誰得なの? そしていつまでどこまで続くんだろう?

 週刊誌以外のメディア人たち(新聞も雑誌も本もウェブもテレビもラジオも)だって、情報の発信者だと思われていますが、発信するために情報を消費している立場でもあります。「売れる」し「読まれる」から、ゴシップ週刊誌が特高警察のようにフィードする「発見」情報に食いついて周辺コンテンツを生産し、いつの間にか見事に「制裁」システムの片棒を担いできた。でもみんなずっと自問自答してきたはずなんです。「いつまでやるんだろう、これ」「俺/私、もう嫌だ」って。

 国民総評論家社会が高じて、国民総裁判官状態。「〜すべき」「甘えるな」と他者に厳しい言葉を投げつけるのは、自分たちもそれと同じくらいの「べき論」の中で一瞬たりとも甘えることなど許されず、重く苦しく冷たい水の中につかって、体と心の芯まで冷え切っているからではないのか。その病的な世間の当事者とは、私たち一人ひとり、全員です。

文/河崎 環 写真/PIXTA