大きな、でも迷いのない決断

 1回目は、日本の大学を卒業し、インドの大学院への留学を決めたとき。

 1980年代後半のちょうどその頃は留学ブームの走りの時期で、学生やOLがこぞって留学するようになっていましたが、留学先としてはアメリカ、カナダ、ヨーロッパ、オーストラリアあたりが主流。まだまだアジア諸国を選ぶ人は少なかったように記憶しています。

 実は私は大学を卒業する22歳まで、人生に希望や夢を持っていませんでした。鹿児島県という狭いエリアから出ることなく、両親の描く「大学で教員免許を取り、卒業後は学校の先生になる」という将来像を、そのまま実行するものだと思って育ちました。

 ところが当時、父がインドの日本人学校の校長を務めていた縁で、初めてインドに降り立った途端、自分の目の前がぱっと開けたような気がしたのです。生まれて初めて自分の意思で呼吸をしたような感覚を、今でも忘れません。

 この地に留学し、ここで勉強する。それは、教職の道を選ばないということでもありました。鹿児島県以外の場所に住んだこともなく、両親に反抗したこともなかった私が、初めて何の迷いもなく、自分自身で決断をくだした瞬間でした。

 そして2回目は2001年、娘がまだわずか1歳だったのに、IT分野のイベントを企画・運営する会社、ウィズグループを設立したとき。それまでの10年間、ITの黎明期に海外の技術を日本に広めるための数々のIT業界のイベント運営に携わってきました。いよいよ自分の会社を立ち上げると決めたというのに、幼い娘を抱えてそんなことができるのだろうか、という迷いは不思議とありませんでした。幼い子を抱えているからこそ新しい働き方を見せられる、新しい組織が作れる、自分はこの道を進むしかない。そのためには今、起業するしかない。そんな感覚でした。

 3回目は2013年に、地域からの情報発信、地域での創業支援などを目的とした会社、たからのやまを設立したとき。自分がITの世界にずっと携わってきて、この技術をごくごく限られた一部の最先端の人たちだけでなく、もっと多くの人たち、子どもから高齢者までを含む地域の人たちのコミュニケーションに役立てるための事業が必要だと感じました。このときの私はもう十分な人生経験があり、その経験値があれば必ずこの事業ができるという思いでした。