自分にとって大きなチャンスが巡ってきたとき、周りにも認めてもらえる成果を出そうとモチベーションが高まるもの。「news every.」に出演中の日本テレビ解説委員の小西美穂さんも、大きなチャンスを前に、思い通りにいかなくても諦めず何度も奮起したことが今のキャリアにつながっているという。前回の記事「私にしかできない仕事を探してベッカム人気火付け役に」に続き、不遇の中でがむしゃらにチャンスをつかんだエピソードを聞いた。

小西さんはいつもチャンスに恵まれていた、というわけではありません
小西さんはいつもチャンスに恵まれていた、というわけではありません

――小西さんは、32歳で当時、所属していた読売テレビで女性初となるロンドン支局赴任が決まった時が、大きなチャンスが巡ってきたタイミングですよね。

 はい。ずっと憧れで目標だった海外特派員に選ばれた時は、まるで夢がかなったような高揚感がありました。一瞬、女性としての生き方とてんびんに掛けて迷う気持ちもよぎりましたが(「小西美穂『仕事にガツガツ挑戦する人生も悪くない』」)、自分の心の声に正直になって、ロンドンへと飛び立ったんです。ですから、特派員時代の3年間は私のキャリアにとって宝物のような期間で、感謝しかありません。

 ただ、実際に行ってみるとなかなかチャンスが巡ってこなくて。前回「私にしかできない仕事を探してベッカム人気火付け役に」でもお話しした通り、報道記者の海外特派員の花形の仕事といえば、やはり国際情勢を左右するビッグニュースを最前線から伝えることです。でも、私にはなかなかその出番が来ず、もし運よく回ってきたとしても、1番手・2番手の記者が徹底的に取材をした後になる。私の実力不足からくるものですが、悔しさを噛みしめていました。

――憧れの仕事でやる気に満ちていたのに、実際行ってみると、なかなかチャンスに恵まれず成果が出せなかったんですね。

 そうなんです。私が赴任したのは2001年8月。その翌月には、世界中を震撼させた同時多発テロが起きました。

第一線に行きたいのに行けない「お留守番」時代

 その日、私は日本国内で発生して注目されていたBSE(牛海綿状脳症)問題の取材のため、ベルギーまで日帰り出張していました。EUの取材を終え、現地カメラマンのサイモンと遅めのランチを食べようとしていた頃、突然、携帯電話が鳴りました。着信は支局長から。電話を取ると、「大変なことが起きたから、今すぐ戻って!」と尋常じゃない声が聞こえてきました。

 急いで荷物をまとめユーロスターに乗り込もうとした時、再び、電話が鳴り、「サイモンはそのままパリ経由でワシントンに向かわせてくれ」と連絡が。私は彼の荷物を預かり、手持ちの現金を渡して「気を付けて!」と見送りました。

 私が戻った直後に支局長もワシントンに飛び、私一人がロンドンに残ることになりました。もちろん、イギリスのブレア首相やNATO(北大西洋条約機構)の動向を伝えるという役割を仰せつかってのことですが、ヨーロッパ中の特派員が目まぐるしく動く様子が伝わってくる中、私一人「お留守番」をしているような、なんとも寂しい気持ちになったのを覚えています。

 そのうち、支局長が休息のために現地から戻りますが、バトンタッチで行くのも私ではない。諦めず「私も行けます。行かせてください」と本社に伝え続けましたが、とうとう私が同時多発テロの現地取材に行かせてもらえることはありませんでした。

 今振り返ると、十分に大事な役割を担わせてもらっているじゃない、と思うのですが、やはり「トップニュースに絡みたい。自分の目で見て、激動の瞬間を伝えたい」というのは記者という職業のさがでしょうね。

――赴任1年目からそういうくすぶり感を抱きながら、3年間の特派員経験が「宝物」になったと言える理由は?

 前回お話しした、ベッカムを取材したエピソードもその一つです。9・11以降は「順番が回ってこないストレス」にしばらく悩みましたが、赴任直後は初日から特派員生活を楽しめていたと思います。

 というのは、私は「新しい場所」に身を置く自分のために、それなりに準備をしていったんです。特派員というとちょっと特別な職業に思われるかもしれませんが、どんな業種でも「異動」はありますよね? 異動直後は「早く成果を出さないとな」と焦ることも多いですし、周りも「あの人、異動先でどこまで活躍できるかな」と注目するじゃないですか。

 だからこそ、安心してスタートダッシュを切れる準備が大事だなと思ったんです。

――具体的にどんな準備を?

 私の場合のうまくいった体験談を話しますね。憧れのロンドン赴任が決まった時、私はまず、行ってすぐにどんな働きをしたら、皆に喜んでもらえるかを考えてみました。