源流を大海原へとつなげた本橋麻里の取り組み

 本橋麻里さんがロコ・ソラーレを作ったのは2010年のこと。

 このチームの誕生により、常呂町に残って就職を考えていた鈴木夕湖さんや、大学へ進学した吉田夕梨花さんは常呂町で競技を続けることができました。一度は旅人となって北海道銀行フォルティウスに加入し、ソチ五輪後に戦力外通告を受けた吉田知那美さんは、失意の帰郷にあっても常呂町で競技を続ける道が残っていました。藤沢五月さんもまた、中部電力チームでソチ五輪出場を逃した後、地元に帰って競技を続けることができました。

 本橋麻里さん自身もカーリングを続けるために道外へと出て行った旅人であったからこそ、そうならざるを得ない現状を打破しなければいけないと感じていたのでしょう。常呂町にカーリングを続けていくための環境をつくる。常呂町にいながらにして、世界を目指せるチームを作る。それは行き詰まっていた場所を打破して、源流を世界の大海原までつなげる取り組みでした。

 ロコ・ソラーレはどこかの企業を母体としたものではなく、常呂町に根差したクラブチームです。公式サイトにはスポンサーとなったたくさんの企業のロゴが並び、選手たちはそうした企業に勤めつつ、カーリングを続けています。一つの企業の思惑によって存亡が左右される実業団とは少し違う、自分たちで自分たちのことを決められる、ある種の「プロ」といえるような形態です。

休憩時間の「もぐもぐタイム」も話題になりました 写真/JMPA代表撮影(毛受亮介)
休憩時間の「もぐもぐタイム」も話題になりました 写真/JMPA代表撮影(毛受亮介)

 そんなチームだからこそ、カーリング自体をやめてしまいそうな選手たちをも、失意の中から引き戻すチカラがあったのではないかと思うのです。多くの実業団的なチームには広告宣伝という目的があったり、五輪出場という「成果」を求められたりするもの。しかし、ロコ・ソラーレはそうした成果以上に、カーリングの町・常呂町のシンボルとしての存在意義があった。「4年に一度」ではなく「日常」としてのカーリングを常呂町で続けていく「道」としての存在意義が。だから、五輪で傷ついた選手たちをも、再びカーリングとともにある「日常」に向かわせることができた

 帰郷後の挨拶で吉田知那美さんはこんなことを言っていました。「この町にいても夢は絶対にかなわないって思っていました。だけど今は、ここにいなかったらかなわなかったなって思っています」と。それは源流が世界という大海原につながった瞬間、日本カーリングの源流・常呂町がいながらにして世界に届く、本当の意味でのカーリングの町になった瞬間だったと思うのです。

 あの銅メダルは長い旅の末に、大海原から源流へと遡ってきたメダル。「サケ」の産卵のように、源流にさらなる実りをもたらす、意義と価値のあるメダルだったのです。

長い旅の末、銅メダルを獲得した日本のカーリング。左から、吉田夕梨花さん、鈴木夕湖さん、吉田知那美さん、藤沢五月さん、本橋麻里さん。本当におめでとうございました 写真/写真/JMPA代表撮影(岸本勉)
長い旅の末、銅メダルを獲得した日本のカーリング。左から、吉田夕梨花さん、鈴木夕湖さん、吉田知那美さん、藤沢五月さん、本橋麻里さん。本当におめでとうございました 写真/写真/JMPA代表撮影(岸本勉)

文/フモフモ編集長 写真/JMPA代表撮影