最初の数カ月というもの、私は気がつくといつも「ごめんなさい」といっていた。いつでもだれにでも詫びていた。最初の1カ月のあいだすべてを放り出してつき添ってくれた母に。多忙の合間を縫って遠くからお葬式に駆けつけてくれた友人に。約束をすっぽかしてしまったクライアントに。感情に流されて集中が途切れたせいで、迷惑をかけてしまった同僚に。とうとう、アダムにいわれて「ごめんなさい」を禁句にすることにした。それに、「すみませんが」や「残念ながら」といった言葉で禁止をかいくぐろうとするのも厳禁である。アダムによれば、自分を責めることで私の回復が遅れていて、そのことが子どもたちの回復まで妨げているという。それを聞いてバチン、とスイッチが入った。みんなの生活が混乱したのは私のせいではなく、あのできごとのせいだ。

 子どもたちが泣くと、父親のいない2人の全人生が目の前にパーッと浮かんだ。デーブは子どもたちのサッカーの試合を一度見逃すだけではない。どの試合も見られないのだ。どのディベート大会にも、どの休暇にも、どの卒業式にも参加することはできない。バージンロードで娘をエスコートすることさえできないのである。デーブのいない生活がこの先ずっと続くと思うだけで身がすくんだ。

 苦しみの渦中にあるときは、その気持ちが永遠に続くような気がするものだ。将来の自分がどんな気持ちになるかを予測する「感情予測」の研究により、人はネガティブなできごとの影響が、実際より長く続くと予測しがちなことがわかっている。私もまったくそのとおりだった。「きっとよくなる」と自分にいい聞かせようとするたび、「そうはならない」という、もっと大きな声にかき消された。子どもたちと私は二度と純粋な喜びを感じることはないだろう。二度とけっして。

 「ごめんなさい」を禁句にしたのと同じように、「けっして」と「ずっと」もNGワードにして、代わりに「ときどき」と「最近は」を使うようにした。「これからもずっとひどい気分だろう」を、「ときどきはひどい気分になるだろう」といい換えるのだ。認知行動療法も試してみた。自分を苦しめている考えを紙に書き出し、次に、その考えが誤っていることを示す具体的な根拠を書く、というものだ。「もう二度と晴れやかな気分になれない」と書いた。文字を見つめていると、ちょうどその朝、だれかのジョークに声をあげて笑ったのを思い出した。ほんの一瞬のことだったけれど、それだけで誤りを証明できた。