丁寧に暮らせない後ろめたさから、誰もが解放されたいんだ

「時代が変わってきていますよね」
「時代が変わってきていますよね」

 誰に何を証明するための丁寧さなのかさっぱり分からない日本文化の一つに、「キャラ弁」があります。一方で、私が今住んでいるオーストラリアには、子どものお弁当に命をかけているお母さんは一人もいません。

 極端な例だとバナナ1本だけ持ってきている子もいるし、毎日同じ具のサンドイッチなんて当たり前だし、それによって「ダメママ」なんて烙印(らくいん)を押されることもありません。だいたい小学校から学食があるので子どもにお金だけ持たせているパターンも多いし、我が家のようにお父さんがお弁当を作っている家もあります。

 日本のお母さんたちを苦しめる「キャラ弁プレッシャー」はなぜ起きるのか。言い古されたことではありますが、共働き世帯に比べて専業主婦世帯が多数を占めていた80年代前後、つまり我々の母親世代が大事にしてきた家庭の在り方が呪縛のように、現代の働くママたちを苦しめているのではないでしょうか。「専業主婦だった母親が自分にしてくれたような家事・育児ができない」という後ろめたさが付いて回るようになってしまったのです。

 しかしご存じの通り、90年代末には共働き世帯が専業主婦世帯を上回り、仕事と家庭、二足のわらじを履くのがデフォルトになった。そんな我々世代に日々の弁当のクオリティーまで求めるのはいくらなんでも時代に合いませんよね。だからこそ、料理研究家の土井善晴さんが提唱する「一汁一菜」や、丁寧な暮らしへの息苦しさを書いた新書などが喜ばれて受け入れられているのではないでしょうか。

 誰もが丁寧にできない後ろめたさから解放されたい今、まさに時代が変わりつつある過渡期なんだと思います。

膝から下は見えないものとする

 時代の変化同様、私自身にもいろんな変遷がありました。特に子どもが小さかったときは保守的になって、夫の家の蔵から出てきた古い器でご飯を食べたり、無農薬の野菜を使って丁寧に裏ごしした離乳食を作ったりしていました。

 でも血眼になって作った離乳食のほとんどを子どもに吐き出された結果、「これ何の意味あるの?」となりまして、速攻でキユーピーのベビーフードに変更(結局こっちのほうが断然食べてくれた)。器へのこだわりも徐々に適当になっていきました。

 実際、子どもが小さいときは自分でコントロールできることなんて何一つありませんよね。丹精込めて作った手料理は食べてくれないし、部屋は常に散らかり放題。自分が思い描く丁寧な暮らしを全うしようとしたら、ストレスで憤死しかねないです。

 そこで子育て真っ最中のとき、「私は膝から上の世界に生きているため、膝から下は見えないのである」と思い込むようにしたんです。

 息子がほっぽらかしたままのレゴを踏んで「痛っ!」となっても、足元は見えない設定。涼しい顔でやり過ごしました。そうして「見なかったことはなかったこと」にする技術を身に付けたことで掃除は最低限の範囲で済むようになり、あとは週1のハウスキーピングをお願いすることで心の平穏を保つことができたのです。

 今思い出しても丁寧な暮らしからは程遠い日々でしたが、「膝から下は見えない」という心の修練を積んだおかげで、いつの間にか仕事上でも相手の嫌なところに目をつぶることができるようになったんです。

 雑の極みのように思える苦肉の策が、意外なところで応用できて役立ったと考えれば、丁寧さを突き詰めることだけが最良でも最上でもない、と思えるかもしれません。また、こうして人は他者の力によってだけ主義主張から自由になり、自分をいとも簡単にトランスフォームすることができるんだと学んだ体験でもありました。