自分の名前が看板になるのが理想

 「肩書とは、こうあるべき」という主張がたくさんある方ほど、肩書にとらわれて生きてきた方なんだと思います。今の時代、いくつだって肩書があってもいいし、その中で自分がしっくりくるものをその時々の意志で選べばいいのではないでしょうか。

 選んだ結果、偉大な先輩と同じ肩書を名乗ることになった場合、「お前はまだまだ本当の●●じゃない」と言われる不自由さもあるでしょう。でも「本当の●●じゃない」ということは、これまでその肩書を使ってきた人たちにはなかった新しいことに自分が取り組めている証拠でもあると思います。私自身、ネットと紙を融合させながら「文章で名を上げたい」という思いがあって、「ネット時代の作家の道を作る」をモットーに掲げているんです。あえて「作家」という単語を使うことで、自分にプレッシャーをかけているともいえます。

 作家だからテレビに出ちゃいけない、ネットから出てきている人は作家とは呼べない、賞をとらない人を作家とは呼ばない……誰かの「作家とはこうあるべき」という意見を聞けば、その思い込みを逆手にとるのが、私がやるべきことなのかもしれません。

 一方で、本来の肩書を忘れてしまうほど多岐にわたる活動をしているリリー・フランキーさんや、「メディア・アクティビスト」という聞きなれない肩書を使っている津田大介さんは、ご本人に知名度があるからこそ、肩書が気になりません。活動の範囲が広い人ほど、肩書は意味を成さなくなりますし、見る人によって肩書が違うというのがこれからの時代のスタンダードになっていくと思います。

 私も、肩書と個人名がひっくり返って、自分の名前が看板になることを目指しています。でも、そこに行き着くまでの肩書は、自分の意志・志を名乗っていいのではないでしょうか。「自分の肩書きにはこだわって、人の肩書きにはこだわらない」のが、私がかっこいいと思う「肩書」への態度です。

聞き手・文/小泉なつみ 写真/稲垣純也 取材日:2017年5月8日