「頑張らない努力」について考えてみる

 いつからでしょうか、気づくと「努力」「労苦」は大人が勲章のように身に付け、高々と誇示するようなものだと思うようになっていました。

 テレビでは金メダリストの栄光が血のにじむ努力の賜物として描かれています。ドラマでもそうです。よくおせっかいおじさんが「こいつぁ、こう見えてもかなりの苦労人なんだよ~」みたいなことを言って若造が周囲の同情を買う。こんなのを繰り返し見ているとなんだか努力がすべての特効薬のように思えてくる。しまいには、「努力」「苦労」していないと後ろめたささえ感じてしまうのです。

 おかげでなんだか大変な方へ、大変な方へと自分を追い込むのがくせになってしまいました。

 頑張らなくてはいけないのが不可抗力だとしたら、どうせなら力の抜き方を教えてもらいたかったと、今となってはぼやきたくなります。

 がむしゃらに頑張ることには代償がある――猛烈に働いたおじさんがある年になると病気であっけなくあの世行きという話はたまに耳にします。

 もちろん、そんな生き方を選びたい人はそれでいいのですが、私はどうせならキャリアを長続きさせたい。しかも、仕事から充実感を得たい。そして、馬力もそうないので限られた体力、気力でなんとかそれを成し遂げたい。

 体はそんなに強くないような気がします。睡眠一つとってもそうです。