「シン・ゴジラ」は大きな方向転換

 長谷川さんは、周囲からいい人だと思われたい、でも、器の小ささや狡(ずる)さ、弱さを隠し切れない――というような役を演じたら、右に出る人はいなかったのではないでしょうか。そんな役を演じることで、男性からは「分かる、自分にもそんなクズな部分がある」と共感されました。また、長谷川さんが持つ本来の魅力も相まって、「こんな人が実在したら嫌だけど、その人間味にあらがえない」と感じる女性も多かったことでしょう(私自身はそう思いました)。長谷川さんが演じてきた役は、自分自身の存在意義を内面に探しながら生きていることを隠さない役だったわけです。

 さて、それが「シン・ゴジラ」では一変。自分の存在意義を内面に見いだすのではなく、国家や正義のために自身を見いだす役に変化します。首都がゴジラによって壊滅的な状況になっても、事なかれ主義の政治家たちが責任を押し付け合ったり煮え切らない行動を取ったりしているときにも、己の信念を貫き、国を守るという筋の通った人物を演じたわけです。しかし、こうした役は、これまでの長谷川さんが演じてきたタイプの役では決してありませんでした。

 ただ、こんなに正義感に燃える役が不自然に映らなかったのは、この矢口蘭堂ですら、ストレートな正義感だけのリーダーではなかったことが功を奏したのではないでしょうか。政治家たちの人間関係などに対する疑念や、自分たちの世代で何かを変えたいという野心が見え隠れし、単に真っすぐで熱血漢なだけの人物には描かれませんでした。今の時代、こうした人間的なモチベーションや揺らぎが見えるほうが、純粋な正義感を見せつけられるよりも、その人に親近感が湧いたり、信じられたりするのだと実感しました。

 この蘭堂のキャラクターがあったからこそ、「小さな巨人」での、腐敗した権力と、権力から取りこぼされた小さな巨人の対立という、「シン・ゴジラ」以前には演じてこなかったような旧態依然とした対立構造のストーリーのドラマにも、すんなりと入っていくことができたのでしょう。

 見ている私たちは、長谷川さんのここ1年の変化をごく自然に受け止めていますが、実は役の方向性としては、かなりの方向転換をしているのではないでしょうか。

文/西森路代 イラスト/川崎タカオ