逃げ恥ブレイクまでの軌跡

――お二人の仕事についての考えも聞きたいのですが、野木さんはフジテレビヤングシナリオ大賞を2010年に受賞してから脚本家になられたんですよね。

野木 最初はドキュメンタリー番組に携わっていて、その後は普通の仕事をしながら、ヤングシナリオ大賞に6年くらい脚本を送り続けて。

――その6年の間に、脚本家になろうと思う気持ちが揺らぐことはなかったんですか?

野木 もともと映画監督になりたかったんですが、ドキュメンタリーを作るようになり、その後いろいろあって、やっぱりドラマや映画の世界に戻ろうと思ったんです。いろいろな挫折を味わった中で、脚本家は人生最後の目標で、何がなんでもなろうと思ってました。でも、大賞を受賞してからもずっと、どう食べていくかが大きな問題でしたね。仕事がもらえなければ食いつなげませんから。

海野 食べられるようになったのは、いつごろだったんですか?

野木 フジテレビの「ラッキーセブン」のときに、後から参加したものの何本か書かせてもらえて、そのときに出会った佐藤信介監督と映画「図書館戦争」をやることになって。そのときも平行して会社勤めをしてたので、その辺の作品がDVD化されたときくらいからですね。海野さんは18歳でデビューして、ずっとモチベーションを保ち続けられているのがすごいですよね。

海野 デビューしてからも売れてなかったし、最初の連載も単行本になかなかならなかったし、看板になるような作家でもなかったんで、いつも「次こそは」って思いながらやっていたんです。で、2009年に書き始めた「小煌女」のときに周囲から「最高傑作だね」って言われて「これがピークかー」と思って。みんながみんな売れるわけじゃないし、ずっと「なかよし」の頃から読んでくれている固定ファンもいたので、この子たちと、どこまでも一緒に行こう……って思っていたら、「逃げ恥」がこんなことになったんです。こんなふうに社会現象になるほどの作品に関われるとは思ってなかったので。

野木 ドラマを作っていても、こんな機会に巡り合えることはなかなかないですから。すごい体験をさせていただき、ありがとうございました。

海野 こちらこそ、いいドラマにしていただいて。

――お二人は仕事において、軸として持っていることはなんですか?

海野 描いているときには、社会性を意識しているわけではなくて、楽しい話を描こうとしていています。エンタメを描こうとしたから「逃げ恥」が広がったのかなとは思いますね。人が生活する姿を描いていたら、考えていることは自然とそこに乗っかっていくものですし、そこが響いたらそれでいいし、そこには興味なければ、飛ばしてもらってもいいしと思います。

――確かに、原作と映像化作品、片方だけ楽しむ人もいれば、両方を堪能する人もいるでしょうね。野木さんはいかがですか?

野木 誠実にやっていくしかないんじゃないですかね。何の仕事でもそれに尽きると思います。いろんな仕事を経験しましたけど、それぞれ楽しかったし、派遣のときも、本当にいい社会経験をしたなと。普通の企業で働いて学んだことが、お仕事ものを書くときにも生かされたし、今振り返ると、焦りはあったけど、どの仕事も無駄じゃなかった。どんなことも何かしらに結びついていて、どこかしらにはたどり着けると思うので。家庭のことでも、子育てでも、なんでも、そのときの目の前のことを全うしていれば、どこか分かんないけど、どこかにはたどり着けるんじゃないかと思っています。

海野 一日、一日の連続ですよね。

野木 結局は、目の前のことをやっていくしかないですからね。

この人に聞きました
海野つなみ
漫画家。1989年、第8回なかよし新人まんが賞に入選し、なかよしデラックスにて「お月様にお願い」でデビュー。 2012年スタートの「逃げるは恥だが役に立つ」がドラマ化されて大ヒット。主な作品に「Kissの事情」「回転銀河」「後宮」「小煌女」など
野木亜紀子
脚本家。映画「図書館戦争」シリーズ、「俺物語!!」「アイアムアヒーロー」、テレビドラマ「空飛ぶ広報室」「掟上今日子の備忘録」「重版出来!」「逃げるは恥だが役に立つ」など

文/西森路代