東アフリカのルワンダは、かつてヨーロッパの植民地政策により国民が3つの民族に分けられ、対立をあおる政策が取られたことにより国民同士が争う悲劇が起きた国。1994年の大虐殺後、30代の若さでその地に入り、手足を失った人のために義肢を作って無償で配る活動を始めたのが、ルダシングワ真美さんだ。さぞかし強い意志の持ち主かと思いきや、以前は職を転々とし、アフリカに渡った理由も現実逃避だったという。流されて今の仕事にたどり着き、辞めずに続けている理由は、「カッコつけだ」と言う真美さん。それでも自信に満ちあふれている不思議な人に、そのキャリアを聞いてみた。

紛争後のルワンダで、身体障害者に義肢を作って無料で配る
ムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクト ルダシングワ真美さん

第1回 元派遣社員がアフリカへ 義肢を配る活動を始めるまで
第2回 ルワンダ人の彼と職探し…その後起きたルワンダ大虐殺
第3回 ルワンダで義肢造り「素晴らしい人と思われたくない」(この記事)

初めて作ったのは両足の義足

英語の専門学校卒業後、約6年間OLとして働く。1989年ケニアのナイロビのスワヒリ語学校に半年間留学。後に夫となるルワンダ人のガテラ・ルダシングワ・エマニュエル氏と出会い、ルワンダの障害者の状況を聞き義肢装具士になろうと横浜の義肢製作所に弟子入り。1996年、ガテラ氏と共にNGOムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクトを設立し、無償で義肢を配る活動を開始した。ルワンダ政府に譲られた土地に、義肢製作所やレストランやゲストハウスを造り、「ワンラブ・ランド」として運営している。
公式サイト:ムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクト

 1995年、ついに私はルワンダに入りました。行く前は、まだ町に遺体が転がっているのかと不安でしたが、町は思ったよりふつうで、人々は日常を取り戻していました。もちろん、建物には銃弾の痕があり、郊外の町では、合同葬儀を目にしたこともあります。大きな穴に腐りかけた遺体がたくさん並んだ光景は、衝撃的というより、現実的じゃなくて、「ああ、人が腐るってこうなるんだ」と思っていましたね。ただあの時嗅いだ人間の腐敗臭は、記憶から消えることはないでしょう。

 そんなルワンダで私たちは、必要とする人に義足や義手などを作って配るNGO活動を始めました。無償配布にしたのは、障害を負ったルワンダ人は収入のない人も多く、買うお金がなかったからです。最初の資金は、私がためた約100万円と、友達や家族、そして大勢の方々からの寄付が100万円と少し。ルワンダへ行く前、私が材料とするための中古の義足を集めていたのをNHKのニュースが取り上げてくれて、それを見た方々がお金を託してくださったんです。その資金で、狭い建物を改装し、私とガテラ、ルワンダ人の義肢装具士2名、受付の人を1名雇って、5人でスタートを切りました。

NGOは、「ムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクト」と名付けられた。多くの血が流されたルワンダだが、「ひとつになって愛し合おう」という願いが込められている 提供/ルダシングワ真美
NGOは、「ムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクト」と名付けられた。多くの血が流されたルワンダだが、「ひとつになって愛し合おう」という願いが込められている 提供/ルダシングワ真美

 材料は中古の義肢と不要になった部品、さらにケニアの義足団体から部品を安く譲ってもらいました。譲ってもらった日本人の義足は、「子どもの?」なんて聞かれるほど、ルワンダ人の足にはかなり短かったので、全部ばらして部品に戻し、新たに組み立てたんですよ。

 最初の患者さんは、車を運転中に地雷を踏んで両足を失った30代の男性でした。私は両足をなくした人の義足を手掛けた経験がなかったのですが、やるしかありません。頼りになったのは、ルワンダ人の義肢装具士でした。経験が長く、材料を手に入れるときも、どこに行けばありそうか見当がつくからです。彼らはまた、私と患者たちとの間にも入ってくれました。例えば「義足の色が自分の肌の色と違っているから嫌だ」なんていう不満も、ルワンダ人の二人には言いやすいんですね。私は最初「ぜいたくだな。タダで義足が手に入るんだから、この色でいいじゃない」と思いましたが、考えたら、自分の肌の色に合わせたいのは当然の思いだなと反省しました。

 最初の義足が完成した時、はいて立ち上がった彼は「目線が高くなってめまいがする」と言いながらも、うれしそうでした。そのそばで、いつも彼を抱いて移動させていたお父さんがとてもうれしそうに笑った顔を、今もよく覚えています。

真美さんと、初めて義足を作った患者さん 提供/ルダシングワ真美
真美さんと、初めて義足を作った患者さん 提供/ルダシングワ真美