東アフリカのルワンダは、かつてヨーロッパの植民地政策により国民が三つの民族に分けられ、対立をあおる政策が取られたことにより国民同士が争う悲劇が起きた国。1994年の大虐殺後、30代の若さでその地に入り、手足を失った人のために義肢を作って無償で配る活動を始めたのが、ルダシングワ真美さんだ。さぞかし強い意志の持ち主かと思いきや、以前は職を転々とし、アフリカに渡った理由も現実逃避だったという。流されて今の仕事にたどり着き、辞めずに続けている理由は、「カッコつけだ」と言う真美さん。それでも自信に満ちあふれている不思議な人に、そのキャリアを聞いてみた。

紛争後のルワンダで、身体障害者に義肢を作って無料で配る
ムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクト ルダシングワ真美さん

第1回 元派遣社員がアフリカへ 義肢を配る活動を始めるまで(この記事)
第2回 ルワンダ人の彼と職探し…その後起きたルワンダ大虐殺 5月24日公開予定
第3回 ルワンダで義肢造り「素晴らしい人と思われたくない」 5月31日公開予定

20代で、こんなシワを寄せていていいのか!?

英語の専門学校卒業後、約6年間OLとして働く。1989年ケニアのナイロビのスワヒリ語学校に半年間留学。後に夫となるルワンダ人のガテラ・ルダシングワ・エマニュエル氏と出会い、ルワンダの障害者の状況を聞き義肢装具士になろうと横浜の義肢製作所に弟子入り。1996年、ガテラ氏と共にNGOムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクトを設立し、無償で義肢を配る活動を開始した。ルワンダ政府に譲られた土地に、義肢製作所やレストランやゲストハウスを造り、「ワンラブ・ランド」として運営している。
公式サイト:ムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクト

 私は今、ルワンダで仕事をしていますが、もともとアフリカに興味があったわけではないんです。ふとしたきっかけでここまで来ちゃったんですよ(笑)。

 20代の頃、私は特許を扱う法律事務所で事務をしていました。仕事は、弁理士さんから渡される書類を処理すること。弁理士さんたちは高齢でしたが、事務所には同年齢の女性もいたので、まあ楽しくやっていました。お昼は会議室で女性たちとお弁当を広げ、テレビで「笑っていいとも!」を見ながら、あの店がああだとか、芸能人がどうだとか、おしゃべりをしたものです。それはそれでよかったのだけれど、なんの発展性もない毎日に、私は徐々に不安を感じるようになっていったんです。自分の世界はこの中だけで、話す相手は事務所の人ばかり。あとは仕事場と家との往復で、新たな出会いもない。「自分はこのまま人生を終えるのか?」とまで思うようになっていきました。

「時はバブル時代。シャツ一枚買うのに3万円もかけ、丸井のクレジットに追われる暮らしにも、疑問を感じちゃったんですよね(笑)」
「時はバブル時代。シャツ一枚買うのに3万円もかけ、丸井のクレジットに追われる暮らしにも、疑問を感じちゃったんですよね(笑)」

 そんなある日、仕事帰りの電車の中で、暗い窓に映った自分にギョッとしたんです。眉間に深い縦ジワが寄っていたんですよ! 「いけない!」と思ってシワを伸ばしても、しばらくたつとまた同じ顔。「20代で、こんなシワを寄せていていいのか!?」と危機感に襲われ、その時から、このままここにいたらマズイと焦り始めました。

 かといって、私には手に職がありません。でもとにかくここから逃げ出そうと、3年勤めたその事務所を辞めたのです。そこでしっかり考えて行動を起こせばよかったのですが……。結局私は就職情報誌を買って、また同じような法律事務所に勤めてしまったんですよ(笑)。