白川優子さん44歳。紛争地や途上国・貧困地域などで独立・中立の立場で医療・人道援助活動を行う団体「国境なき医師団」で看護師として働く。過酷な医療現場に直面するだけでなく、自身の命も危険にさらされるような仕事だ。ごく普通の高校生だった白川さんが、この仕事を選ぶまでの軌跡と仕事にかける思いを伺った。

白川優子(しらかわ・ゆうこ)
1973年埼玉生まれ。「国境なき医師団」手術室看護師。7歳のときにテレビで観た「国境なき医師団」に感銘を受ける。高校卒業後、4年制(当時)の坂戸鶴ヶ島医師会立看護専門学校に入学。卒業後は埼玉県内の病院で外科、手術室、産婦人科を中心に約7年間看護師として勤務。2003年にオーストラリアに渡り、2006年にオーストラリアン・カソリック大学看護学部を卒業。その後約4年間、メルボルンの医療機関で外科や手術室を中心に看護師として勤務。2010年、「国境なき医師団」に参加。イエメン、シリア、南スーダン、イラクなど、主として紛争地で活動を続ける。

幼い頃に図書館で手に取った報道写真集

 「国境なき医師団」という団体を初めて知ったのは、7歳のときでした。たまたま、テレビでこの団体のドキュメンタリーを見て、その名前に強い衝撃を覚えたんです。「国境なき医師団」は紛争地、途上国などで独立・中立の立場で医療・人道援助活動を行う団体です。医療に国境があってはならない、人間は皆同じで差別してはいけない、ということがひしひしと伝わってきて、いまだに当時の感情がまざまざとよみがえってきます。

 特に意識して世界に目を向けていた子どもであったという記憶はありません。ただ、私は本が好きで、小さい頃からよく図書館に行きました。小学2年生ぐらいの頃のことでしょうか。市立図書館ではいつもあるコーナーに真っ先に行って、1冊の写真集を手に取ったものです。貧困に苦しむ世界の人々をテーマとした報道写真集で、アフリカの難民キャンプの子どもたちや飲料水をもらうために並ぶ人々といった写真が収められていました。なんとかしなきゃいけないとか、かわいそうだと思って見たという記憶はなく、「こんな国があるんだ」とただただ眺めていたように思います。なぜか、無意識にそうした世界に目が向いていたんです。

「貧困に苦しむ世界に無意識に目が向いていたんです」
「貧困に苦しむ世界に無意識に目が向いていたんです」

 看護師になろうと決めたのは高校時代のことです。商業高校だったので、卒業生は90パーセント以上就職するという学校でした。バイトにあけくれるという、ごく普通の高校生だったのですが、実はなかなか進路が決められなくて。自分にはやりたいことが絶対あるはずだけど、それが何か分からないという状況でした。高校3年生にもなると周囲は皆、企業の説明会に行き、どんどん内定をもらっていく。でも私は、一般企業に就職する気持ちにはなれず、パンフレット一つ手に取る気になれませんでした。

 そんな中で、それまであまり話したことのなかったクラスメートが、「私、看護学校を受けるんだ。そのために予備校に通っているの。昔から看護師になりたかったんだよね」と話してくれたのです。それを聞いて、「私がやりたかったのは、これだ!」と思いました。やっと、気持ちに「どんぴしゃ」とくる職業に出合えたのです。