「死ね」が公の場に登場することへの温度差の理由

 「死ね」という言葉に目と耳を塞ぎたいほどの嫌な気持ちを感じる人もいます。

 ところが「保育園落ちた日本死ね!!!」のあのブログを支持した人たちにとって、「死ね」はもうそれほどの強さを持っていなかった。もう「死ね」の鋭さにいちいち引っかかるようなことはなくなっていた。「死ね」は強い批判や怒りを示す表現の一つにすぎなくなっていたのです。

 それは「死ね」という言葉をもしかしたら何度も心の奥底で繰り返してきたこと、それを思い浮かべ、口にする自分たちも自分の言葉を自分の耳にしながら、でも自分が感じる世間の不公平感や理不尽に傷ついてきた、泣いてきた、悩み苦しんできた、そのことの裏返しなのではないかと思います。

世間の不公平感や理不尽に傷ついてきた、泣いてきた、悩み苦しんできた、その裏返しだった (C)PIXTA
世間の不公平感や理不尽に傷ついてきた、泣いてきた、悩み苦しんできた、その裏返しだった (C)PIXTA

 「死ね」という言葉に共鳴した人々が、主に子育ての渦中にある、同じく悔しい思いをしてきた若い親であったこと、特に母親たちであったことを考えると、まさに彼女たちにとって「死ね」はその強さ残酷さゆえに、共感できたのだと思うのです。