母という存在から生まれ出た私たちは、「母」に対して、あるいは「母」という言葉に対して、一人ひとり何か特別な思いを持っています。

「母」とはこういうもの――みんな特別な思いがあります (C)PIXTA
「母」とはこういうもの――みんな特別な思いがあります (C)PIXTA

 だからなのでしょうか。

 「3歳児神話」とか、母乳が出るとか出ないとか、子どもがかわいいとかかわいくないとか、働くとか働かないとか、料理が得意だとか苦手だとか。お母さんになったらなったで、自分が思い描く「理想の」「正解の」お母さん像と自分を比べて思い悩む。お母さんじゃない人たちも、自分たちなりの「母」像への思いがあるから、「母」について意見する。

世の中にはいろんなお母さんのかたちがあっていいと思う

 その結果、個々の細かい現実とはすっかり離れたところで、「母」というものは、世間の思いの最大公約数みたいな。とりあえずいろんなことをまるっと全部解決してくれて、慈愛に満ちてとにかく優しく受容して抱きしめてくれるみたいな。極端に言えば、「母なる大地」とか「母なる海」みたいな。いや、もうそれ人間じゃないじゃん、神話じゃん、神じゃん、と突っ込みたくなる、大正義の「母」という観念がドシンドシンと独り歩きすることもしばしばで……。

 そうなんです。そういう「大正義の母親像」って、ちょっと現実の人間離れしていないですか。そんな神みたいな母親に、みんながなれるわけがない。ならなくていい。

 ひょっとしてもしかして、「しまった、私、子育てに向いていない」というお母さんがいたって、それを世間みんなで「母親失格」と訳知り顔にボコボコにたたくのはおかしいと思います。他人の肌に「失格」と熱く焼けた烙印を押し付けるその残酷な訳知り顔は、いったい何に「合格」しているというのか。

 だから、世の中にはいろんなお母さんのかたちがあっていいと思う。子どもや学生に対しては「十人十色」「個性」なんて言葉にもろ手を挙げて賛成していたのに、ひとたび母親や社会人のことになると「いろいろな形」「個性」を否定しにかかるのは、なんという名の社会病ですか?

 「お母さんらしくない」「お母さんのくせに」という言葉を使ったことのある人、さあここからみんなで反省会です。