タラレバを「刺さる〜」と「喜ぶ」層への冷たい視線

 タラレバという作品を特徴付けるのは、「結婚=女の幸せを手に入れる!」というその一点についてあえて前提的に批判を加えず、そのゲームに参加してしまう女たちを戯画化し、遠慮なく目を覚まさせるような鋭い言葉を投げつける描き方です。

 あらかじめ定められたゴールへ向けて、あらかじめ定められたルールで戦うことを受け入れてしまった女たちの、不器用で惨めな姿や思い。なのにまたそのフィールドに立ってしまう、どうしようもない姿をこれでもかこれでもかとえぐるわけです。

 東京のオシャレ一等地ど真ん中や、いかにもオシャレそうな職業、人間模様を借景にしながら、恋愛→結婚のゲームには価値があると思ってしがみつく女の見苦しさを描くことに徹しているのです。

 ですから、タラレバを読んで「刺さる」「痛い」と傷付く先の向こう側、人によってはもがき苦しみながらも共感に至る層は、実はそのゲームの参加者であり、あるいは参加する意思や参加した記憶がある者。

 彼女たちは皆、過去から現在のどこかの時点で、フリ・フラれだろうが、セカンドだろうが、不倫だろうが、どういった形であっても恋愛の当事者だったから、タラレバで描かれる女の感情に記憶がある。そして大切なのは、どこかそんな自分を客観視しうる肯定感と冷静さも持てているから、こんなつらい作品を読んでいられるのです。

「刺さる」と言いながらも、どこかそんな自分を客観視しうる肯定感と冷静さ(C)PIXTA
「刺さる」と言いながらも、どこかそんな自分を客観視しうる肯定感と冷静さ(C)PIXTA

 ところが、タラレバ批判の中には、そういった「刺さる」と言いながら読んでいる人を「社会構造に疑いを持たぬまま薄っぺらく傷つけられて喜んでいるマゾヒスティックなファン」と冷たい視線を送るものもあります。私は、タラレバに「刺さる」と共感する人々や、まして作者の東村アキコさんがゲームのあり方に無批判であるかというと、それは全く別の話だということを指摘したい。

 東村さんがKEYやタラ・レバの口を借りて発するセリフは、本人も幾多の恋愛を経て、子連れでの離婚再婚を経験しながら創作を続けてきた40代の東村さんの、確信犯的な人間観・恋愛観だからです。