「『若者』をやめて『大人』を始める」に小さく悲鳴を上げる

(帯文引用)
選択肢が多様に広がったからこそ、生き方が定まらない。
気が付いたらもう”いい歳”。立派な「大人」になれた実感、ありますか?
「成熟のロールモデル」が見えなくなった現代において、「若者」を卒業し「大人」を実践するとはどういうことか?

 熊代さんは書きます。

 「『何者にもなっていない』まま歳を取ると、『何者にもなれなかった中年』というかたちでアイデンティティが固まってしまいます」

 そして耳が痛いのは、

 「高学歴、かつ大都市圏で勤める人は『大人』を始める時期がどうしても遅れます。就職する時期が遅く、就職したとしても、キャリアアップを意識すると仕事もなかなか落ち着かず、人生の選択肢が果てしないように見えては、その方向性は簡単には決まりません。結婚も遅れやすく、したとしても、離婚率は地方より高めなので、アイデンティティの構成要素としてはちょっと弱めです」

 現代では、就職も、結婚さえも「アイデンティティのゴール」にはなり得ないということ。現代の都会人のライフスタイルは、「いつまでも若く」を目指し成熟を拒否・否定してしまっていたのではないか、とも熊代さんは指摘します。でもその結果が「何者にもなれなかった中年」の大量生産です。

 「『自分探し』の季節も、『若者』の季節も、終わりがあればこそ愛おしいのであって、いつまでも続く『自分探し』というのも、エンドレスな夏休み同様、呪わしいもののように思われます」

 ただ、救いがあります。「趣味や課外活動もアイデンティティの構成要素になる」「揺るがない自分が生まれると、足下が固まるがオジサンオバサンにもなる」

 何者にもなれないままオジサンオバサンに「なる」のは、「醜悪な加齢」かもしれませんが、趣味や課外活動を通じて自己の内面を知り、自分が何者であるかを確立した上でオジサンオバサンを「引き受ける」のは理想的な「成熟」なのだと感じました。そして、「自分が何者であるか」を模索する過程で平凡と折り合いをつけるのも、一般人である私たちの成熟には必要な作業なのかもしれません。

私たちが避けたいのは「オバサン」ではなく、「何者にもなれなかった中年」です! (C)PIXTA
私たちが避けたいのは「オバサン」ではなく、「何者にもなれなかった中年」です! (C)PIXTA

 退屈したつまらない人間にならないために、人は何かにハマっていていいのですよね。一見平凡そうに見えて、内面は超絶充実して日々エキサイティングな成熟した「オタク中年女子」、ご一緒にいかがでしょう?

文/河崎 環 写真/PIXTA