会見で語った「罪」と「償い」

 会見直後は、厳しい意見が大勢を占めました。「介護で苦しい思いをしている人は世の中にいっぱいいる。それを理由にするのは甘えだ」、そしてKEIKOさんの病状を詳細に打ち明けたことを「そこまで妻のプライバシーを披露するのはいかがなものか」など。

 でも、小室さんの満身創痍(そうい)の告白が心に響いた人も、同様に多かったのです。人生の伴侶が、二人が一番大切にしていた音楽への興味と記憶を失っていく。介護生活の中で「最も身近な理解者を失った」ことを繰り返し思い知らされながら老いてゆく音楽家が、「才能の枯渇」への恐怖や体が衰えていく不安を前に、それでもどこまで創作を続けていけるのかと自分に尋ね続ける、孤独な戦い。

 小室さんが置かれた状況を知れば知るほど、それまで断罪やバッシング一辺倒だったSNSの反応の中にも、「小室さんの身辺を調べ上げていたのなら、文春も彼の体調や創作の苦悩など、背景事情を知っていたはず。弱った人間を追い込んで、文春は満足か?」といった意見が出てきました。

 また、お笑い芸人のエハラマサヒロさんは「犯罪でも無いみんなが知らなくていい事晒(さら)して、みんなに最高の娯楽を生んでくれる人をストップさせてしまうのは俺は嫌」と言い添えた上で「雑誌がまた一人の天才を殺しました」とツイート、大きな反響を呼んでいます。

 小室さんの会見の中で私が気になったのは、「(今回の報道は)戒めみたいなこと」「罪があれば、必ず罰も受けなければいけない」「僕のかたちの償いではこれが精一杯」といった、「罰」や「償い」という意味の言葉たち。

 小室さんは2009年の詐欺事件判決と、2011年のKEIKOさんのくも膜下出血を「罪」と「罰」と呼んでいるのです。そして「僕は音楽の道から退くことが私の罰であると思いました」。今回の「罪」は「不倫疑惑報道」であり、罰は「引退」であると。

 つまり週刊文春の報道や、それをきっかけに一斉に噴き出した世間のバッシングは裁判所と同じように小室哲哉に「判決を下した」わけです。SNSでは、文春に対して「自分たちがいったいどれほどの正義だというのか、そこに本当の報道の意義などあるのか」との強い疑問もまた、反動として噴き出しています。

 その後、週刊文春記者は民放ニュース番組で「(取材内容には)絶対の自信もある」「だが本意ではない結果になった」と弁明しつつも、報道記事を拡散した「文春砲」ツイートは「裏切りの密会劇」「美談の裏で」と十分に制裁の色濃い物言いをしており、当該ツイートには批判コメントが殺到する炎上状態になりました。

日本社会を挙げての不倫制裁システム

 文春記者の「本意ではない結果になった」との吐露を聞くと、では何が報道の本意だったのか、それを一番知りたいと思うのです。「絶対の自信」もあると断言しているのは、「取材の裏が取れている」といった話なのでしょうか? では裏さえ取れていれば、その報道は「だって事実ですから」と正当化され得るのでしょうか? フリーアナウンサーの雪野智世さんも「一週刊誌の報道がこんなふうに、人の人生を変えたりとか、傷つけたりすることが、本当に報道の意義があることなのかなっていうのは、ずっと感じている」と、情報番組で語りました。

 ではなぜ、文春は「みんなが知らなくていいことを晒す」のでしょうか。私は、それによって社会が変わるのを見たいというのが週刊文春というメディア編集部の意思だからだ、きっとある意味で純粋にジャーナリスティックな動機、ジャーナリズムの原理主義めいた思想故なのだと考えるようにしていました。それが社会の巨悪ではなく、個人同士の不倫というネタであっても。

 実際に、この2年間で「みんなが知るべきこと」以上に「みんなが知らなくていいこと」がたくさん晒され、世間は大いに沸き立ち、よかれあしかれ社会は確かに変化しました。

 発売のたびに大きな話題になり雑誌が売れに売れていく様子を見て、ライバル誌や他のゴシップ誌も同じような路線に追従し、各誌発売日前に中吊り広告やウェブサイトでヘッドラインがチラ見せされると、即座に他のメディアに報じられ、SNSで見る間に拡散されていくのはやはり不倫関連が主。そして、今度はその「反響」を報じる記事がまた量産され、読者のコメントを付けて拡散されていきます。「不倫は売れる」ことが社会全体で証明されました。