24歳で乳がんを経験し、「自分が一番苦しかったときに欲しかった場所を、同じような状況の人に届けたい」という思いでマギーズ東京プロジェクトを立ち上げた鈴木美穂さん。プロジェクトが前進する一方で、本業の記者としては「自分は本当に困っている人の役に立てているのだろうか」と葛藤を抱えていました。鈴木さんがマギーズも記者の仕事も諦めなかったからこそ、手に入れられたものとは――。


記者を諦める覚悟で会社に直談判

 共同代表である秋山正子さんのチームとは、役割を分けているんです。秋山さんは長らく臨床や看護教育に携わってきた方なので、実際に患者さんをサポートする、いわばソフト面については秋山さんをはじめとする医療関係者のみなさんに主に担当していただいています。私のチームはどちらかというとNPO法人の経営というハード面の担当。お金を集めたり、土地や建築について交渉したり、広報活動を主にしています。

 生活の中では今でも記者の仕事に費やしている時間が大半なのですが、会社に「マギーズ東京」をNPO法人化して活動したいと申請しようとしたところ、副業禁止だから認められないだろうと言われてしまいました。どうしても関わりたいのなら、黒子に徹するか、裏で支えるポジションになったらどうか、と。マギーズの会議でメンバーに相談したところ、私ができないとプロジェクトが前に進まない、と背中を押されました。

 確かに、そもそも私がやりたいと言って立ち上げた張本人だし、秋山さんにも自分から声を掛けておいて一人に押し付けるわけにもいきません。やはり自分でやらなければと改めて腹を括り、会社に「記者の仕事とマギーズ、どちらかしか続けられないのだとしたら、記者の仕事を諦める覚悟でいます」と伝えました

日本テレビ報道局・社会部記者/NPO法人マギーズ東京共同代表理事 鈴木美穂さん
日本テレビ報道局・社会部記者/NPO法人マギーズ東京共同代表理事 鈴木美穂さん

記者の仕事にも葛藤があった

 その時、どさくさに紛れて記者の仕事にも迷いがあることを伝えたんです。

 乳がんになった当時、私は社会部で宮内庁の担当でした。復職後は文科省の担当などを経て政治部へ異動となり、政治家の先生方や選挙の取材をしていました。取材を通して新しい世界に触れ、情報を発信する。毎日充実していたのですが、極論を言えば私でなくてもいいのでは、という葛藤がありました。仕事をしながら「今の仕事は、本当に私が生涯かけてやりたいことだろうか?」と自問する日々。ただ、マギーズの活動を通してわかったこともありました。

 それは、たった1人でもいいから「あなたに会えて本当によかった」と喜んでもらえることで、私は圧倒的に生きている実感を得られる、ということでした。