トトロは単なるモノノケではない

 物語の中では、トトロやまっくろくろすけなどのモノノケは、子どもの目にしか見えないという設定になっています。たしかに子どもは大人とは違った目、違った心を持っています。子どもはお化けを怖がります。それはお化けを信じているからです。そして実際にお化けを見たような感覚にとらわれることもあります。

 大人と子どもの違いは、もちろん経験や思考の深さにあるわけですが、それは必ずしも大人が優れていることを意味しません。いわば両者は異なる認識能力を持っているにすぎないのです。

 これについてスピノザは、三つの認識の種類を挙げています。一つ目は表象知です。表象知とは、物事の原因を知ることなく、ただ現象だけ、結論だけを見ることを指します。いわば何も考えずにものを見ているだけの状態です。認識能力としては不十分だといえるでしょう。

 二つ目は理性知です。理性知は、逆にものごとの理屈を考え、その法則を知ることを指します。これは大人がマスターしている知であり、認識能力だといえるのではないでしょうか。大人はなんでも頭で理解しようとしますから。神様の存在だってそうです。「ああ、あれは人間が作り出したものだ」なんていうふうに。

 三つ目は直観知です。これはものごとを単に一般的に理屈で理解するというのではなく、具体的に個別のものを感じることを指します。神様の存在でいうなら、頭で理屈を考えるのではなく、それを感じることによって知るわけです。私はこれこそ子どもの知であり認識能力だと思うのです。

 サツキとメイがまっくろくろすけを見たり、トトロやネコバスを目にするシーンは、どこか神秘的です。まるで神秘体験のように神を感じているのです。そこには理屈を超えた認識があります。まさにスピノザのいう直観知です。 

 だからサツキとメイだって常にトトロたちに会えるわけではないのです。物語の中でも「運がよければ会える」という表現が出てきますが、それは心の状態と自然とがシンクロする偶然の体験なのです。人間が自然の中に暮らしていた昔は、おそらくそうしたシンクロの機会も多かったのでしょう。「昔は木と人が仲良しだった」というセリフがそのことをほのめかしています。

 「となりのトトロ」は、そんなモノノケたちに出くわすような経験がまだこの国にありうることを示唆すると同時に、それを失うことが人間にとってどれほど大きな損失であるかを教えてくれています。なぜなら、トトロは単なるモノノケではなく、私たちのとなりにある自然や人の優しさそのものだからです。トトロを時々見なければならないのは、そうした理由からです。大切なものを失ってしまわないように…。

となりのトトロ
<ストーリー>
「そりゃスゴイ、お化け屋敷に住むのが父さんの夢だったんだ」と、こんなことを言うお父さんの娘が、小学六年生のサツキと四歳のメイ。このふたりが、大きな袋にどんぐりをいっぱいつめた、たぬきのようでフクロウのようで、クマのような、へんないきものに会います。ちょっと昔の森の中には、こんなへんないきものが、どうもいたらしいのです。でもよおく探せば、まだきっといる。見つからないのは、いないと思いこんでいるから。

監督:宮崎駿
販売元:ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社

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