東京で映画の広報という華やかな仕事につきながら、夫とともに実家の佐渡島に戻って蔵元を継ぐことを決意した尾畑留美子さん。意を決して実家に戻ったものの、うまくいかないことばかり。八方塞がりな5年間を過ごすことになるのです。


意気込んで夫と一緒に佐渡に移り住んだがうまくいかない

 1995年の秋、酒造りへ意欲満々で佐渡島に移り住んだ二人は、すぐに思いがけない壁にぶつかる。

 「何か新しいことをやろうとしても、なかなか賛同してもらえない。映画業界でスピーディな仕事の仕方に慣れていた私は、何をするにも時間がかかって物事が進まない、そのギャップに苦しみました」。

 「例えば、ラベルのデザインはこんな風にして、こういう売り方をしたいと提案しても、そのアイデアは通らない。映画業界で培った仕事のやり方をそのまま持ち込んでしまったので反発もありました。商習慣や取引先との歴史もあるのに、それを無視して、押し付けるようなやり方をしていたんだと思います」。

 Uターン後の5年間はそんな状況が続く。その間、尾畑さんは二人の女の子を出産。仕事は、相変わらず思うようにいかない日々。なかなか変わらない状況にいら立ち、何度も夫に「東京に帰ろう」と訴えた

 「夫も私も、前の会社の上司から、5年まで待つからいつでも戻って来い、と言われていました。私はどこかで、戻れる場所がある、という甘い考えを持っていたのかもしれません。しかし、よそ者扱いで私よりしんどい状況にあったはずの夫は首を縦に振らない。うまくいっていないからと東京に帰ったら、僕たちは負け犬になるよ、と彼に言われました」。

うまくいかなかったのは「自分が動いていなかったから」

 夫の固い決意を知り、東京に戻るという選択肢が消えた瞬間、尾畑さんは、「目の前が開けた」という。「例えば、クローゼットと一緒。洋服をいっぱい詰め込んでいると、中が見えない。整理して選択肢が限られると、ようやく全体が見えてくる。退路を断たれて初めて、自分にできることが目の前にいっぱいあるって見えてきました」。

 八方塞がりだった5年間は、「だから田舎はダメなんだ」と周囲や環境のせいにしてばかり。「よく考えてみると、私自身が動いてなかったんです。人のせいにしないで、自分で行動すればいいんだと気がつき、実際、自分が動き出したら、空気が流れ始めた。生活や仕事が徐々に変わり始めました」