誰もが涙した、伝説のソチ五輪

 五輪で銀メダルを取り、世界選手権を3度制した偉大な選手にもかかわらず、一番まぶしく輝くはずだった一番大きな舞台で2度涙したことが彼女を悲運の主人公にさせてしまう。

 その悲運のイメージこそが僕らが見た未来の大きさを示すものであり、いかに僕らが真央さんを好きだったかということの裏返しなのです。

 ソチ五輪の伝説のフリープログラムは、出会いの頃に予感した「未来」に一番近づいた瞬間だったのかもしれません。

 あのシーズン、真央さんはすべてを整えていました。

 フィギュアスケートは決められた要素をこなすショートプログラムと、自由な構成で見せるフリープログラムとの2回の演技の合計点を競う種目ですが、真央さんはショートプログラム・フリープログラム両方にトリプルアクセルを組み込み、高い成功率で決めてみせました。

 グランプリシリーズではファイナルを含めて3戦3勝、ショート・フリー・総合すべてで1位になるという好調ぶり。

 その背景には、バンクーバー五輪後から取り組んできた自身のスケートの再構築がありました。ジャンプをゼロから作り直し、一時期はプログラムに組み込むことを避けていたルッツジャンプも取り入れられるようにし、すべての3回転ジャンプを組み込む構成を実践できるようになったのです。

 まさに極みに至る準備が整っていました。

 それなのに、大本番のソチ五輪のショートプログラムだけが、考えられないような大失敗の演技に。

 トリプルアクセルは着氷した後に何かに引っ掛かるようにして転倒、続くトリプルフリップはアンダーローテーション(回転不足)となり、必須要素であるコンビネーションジャンプはジャンプの不調によって実施できませんでした。

 ショートプログラム55.51点は、そのシーズンの真央さんが71~73点を記録していたのに比べて15点以上も低い得点。

 金メダル、そしてメダルというところも含めて絶望的な16位出遅れとなったのです。

 すべての努力をし、すべてが順調に進み、この主人公が歓喜のエンディングを迎えると思ったのに、すべてが台無しになったようでした。

 単に五輪で失敗をしたというだけでなく、10年に及ぶ浅田真央の物語がこんな形で終わってしまった――。真央さんだけでなく、この物語に寄り添った人みんなが絶望し、諦めたのです。

 そして、真央さんも「当然諦めたはずだ」と思っていました。

 しかし、僕らはそこでまさに「浅田真央」を見ることになります。