「そんなこと自分で考えろ!」と言われることは分かっている……。だけど、モヤモヤと考えてしまうささいなことを、小島慶子さんにぶつける本連載「小島慶子さんにこんなコト聞いちゃいました」。第3回となる今回は「丁寧な暮らし」問題について、小島さんに聞きました。

Q.「丁寧な暮らし」って、しなきゃダメですか?

「ゴミの仕分けはきちんとやっています」
「ゴミの仕分けはきちんとやっています」

 「丁寧」の反対が雑なのか、お金で解決できることの反対が「丁寧」なのか――「丁寧な暮らし」の定義はさまざまあると思いますが、丁寧であることがつらさを伴ったり、楽を許さない方向であったりするなら嫌だなあと思います。なので私は、雑じゃないけど楽できて、心地よい方法を選んでいきたいですねえ。

 今実践している丁寧な暮らしっぽいことといえば、化学調味料ではない、天然のだしを使っていることかなあ。でもパックタイプなので、水にぶち込むだけ。かつおぶしを布巾でこして……なんて面倒臭くて自分にはできません。

 あとはゴミの仕分けをきちんとすることくらいなので、何かを慈しむような気持ちで思いを込めてやっています、みたいなことはないかもしれない。

刺し身はパックからじか食べ

 さらに最近、買ってきたお総菜をパックから直接、お皿に移さないで食べられるようになったんです。これまではどんなに疲れていてもパックからじか食べすることだけはするまいと、皿の上の滞在時間が10秒だったとしても移し替えて食べていました。それをやったら一発でダメ女になってしまうような、妙な強迫観念があったんです。

 でもここのところ出稼ぎ生活が忙し過ぎて、お皿を洗う時間すらもったいなくて(編注:現在オーストラリア在住の小島さんは仕事のために数週間ずつ日豪を往復する生活で、東京に滞在中は一人暮らしをしている)。そこで私はついに、「パックじか食べ」を自分に許したのであります。

 するとどうでしょう。食べるそばから器が片付いていく上、洗剤も使わずに済む。食後はお湯できれいに洗って再生プラスチックに分別すれば、それはそれで丁寧な暮らしだわ、と思ったわけです。

 「パックじか食べ女だけにはなりたくない」と強く思い続けて40年余り。それって裏を返せば『パック食べ蔑視』でもあるわけで、そこから解放されたほうが人としては寛大でいい人ですよね(笑)。

 よくよく考えてみたら、私の場合は母の小言などからいつの間にか取り入れていた「買ってきたお総菜をお皿に盛らない人=品のない人」という概念に縛られていただけで、心地よさや丁寧な暮らしを目指してやっていたわけじゃなかったんです。

 もちろん、親が小さい子どもに毎食、パックのままご飯を出すのはいかがなものかと思いますよ。でも、既に「食事は本来、お皿に盛り付けて食すのが理想的なマナーである」ということを体得しているのであれば、必要に応じてパックから食べる日があってもいいじゃないですか。このごろは子どもたちが大きくなって親としてマナーの模範を示す必要がなくなったこともあり、そんなふうに自分を許すことができるようになったんです。

 寝る間もないほど忙しい日はお風呂サボってもいいじゃないですか。毎回セーターをクリーニングに出さなくてもいいじゃないですか。私はこれを進化であると捉えています(笑)。手間を楽しんでいるなら問題ないですけど、丁寧さを追求するあまり余裕がなくなってイラついてしまっては本末転倒ですからね。