気のせいか、最近は正月になると町中でジャージ姿の人が増える。年中、仕事用の堅苦しい身なりで外出する人々が、一気にに緊張のたがを外すのか、生活を崩し、化粧を崩し、食べ過ぎで腹もたるみ、そこでジャージのおでまし。身内といっしょに初詣にいくだけなら誰も文句はないでしょと、ゆるい服装の人々が増殖する。けれどせっかく年に一度、日本中が打ち水をされたように、こざっぱりとした清潔感に覆われるのだ、服装にも気を遣って出かけたほうが気分がいいのでは?と、こうした噺のまくらを振ったうえで、おきまりのように正月ということで今月は日本の伝統芸能の話をしたい。たまには晴れ着でもきて、和の美しさを堪能しましょうよと。
だが肩すかしなことに、年末20日、久々に足を踏み入れた歌舞伎座は何ともトンデモナイことになっていた。伝統・格式・風格といった壮美さからは程遠い、いい意味でも悪い意味でも、腰紐がゆるゆるにゆるんだジャージのような歌舞伎。晴れ着な歌舞伎よいずこ、である。
そもそも『大江戸りびんぐでっど』という演目名からしてすごい。作・演出はテレビや映画の脚本家として活躍するクドカンこと宮藤官九郎。終演後、主役の市川染五郎の楽屋を訪ねたところ「ねぇ、来るところまで来ちゃいましたよ、歌舞伎も」と彼みずから半笑いでコメントしてくれたが確かにそうだ。 歌舞伎、ココまでいっちゃいますか。
物語は、新島でくさや売りをする半助(市川染五郎)が、死人にくさや汁を塗ったところゾンビとして蘇り大江戸を占拠する、という荒唐無稽な筋立て。しかし、単にバカバカしいだけの話ではなく、そのゾンビたちが途中から「はけん」と呼ばれ働きはじめることで、生き心地のわるい息苦しさの中で暮らすという、現代社会の若者への風刺がこめられていたり、半助・お葉(中村七之助)・新吉(中村勘三郎)による殺人事件の絡む三角関係がつめこまれたりと、黒く重いテーマの種はふんだんにちりばめられていく。ただ惜しいかな、それらテーマのどれもが熟しきることがなく、小ネタな笑いで芝居が散漫な印象に。確かに宮藤の作家としての美質は、どんな小さな役にも笑いどころをもたせ楽しめる点にあるのだが、初めて歌舞伎役者という豪華な遊び道具を得て、おもしろがりすぎてしまったのかもしれない。ノイジーな過剰さで舞台を埋め尽くすのでなく、もう少し削ぐ勇気をもてば、格段にいい芝居になるのにと何度も悔しく思ってしまった。
とはいえ、中村勘太郎に中学生男子のような下ネタをやらせ、坂東三津五郎に『少年マガジン』のようなべたな浪人キャラを演じさせ、マイケル・ジャクソンの『スリラー』を思わせるゾンビの総踊りを歌舞伎座で実現してしまった行為は、暴挙すれすれの快挙だ。主人公の染五郎も、幕開け直後「くさや」の着ぐるみ姿で登場。セリフのあいまあいまに相手役の七之助に「くさやっ、くさやっ」と声をかけられ「うるせぇ、くさやって、そんな屋号ねぇよ!」とツッコミを入れたりする。もう、一事が万事この調子。しりあがり寿による美術、伊賀大介の衣装、向井秀典の音楽もあいまって実にライトに軽快にドリフのテンポで歌舞伎が転がっていく。
自宅にある大辞林を引くと「かぶく」とは、人目につくような変わった身なりや行動をする、といった意味があるらしい。この意味からいけば、クドカン歌舞伎はソレナリにかぶいていた。ドラマ構造や人物描写の部分で新しい視野を切り拓いていたかと問われると、やや消化不良な部分もあったが、伝統に変に迎合することなくクドカンらしさを貫いた時点で、新奇さの種は埋め込んでいた。
歌舞伎座でくさや、歌舞伎座でゾンビ、こうなると自分が晴れ着だと思うのならば歌舞伎座でジャージだっていいじゃない、という時代が到来する日も近いかもしれない。それに考えようによっては歌舞伎座でジャージは、かなり「かぶいている」といえる。



